茅渟神社 参拝すれば大漁かも!!
黒鯛の事を関西人がちぬと呼ぶ由来
かつて大阪の海が茅渟の海と呼ばれていた頃からの名残、
今も海に出る人たちを守る神社として、存在します。
[茅渟神社] : ちぬ、八王子神社
住所:泉南市樽井(八王子)
祭神:八王子(下記)を祀る、
本殿:東向、
千木:、
神紋:
場所:南海樽井駅南500m。国道26号樽井南信号を海側へ入る。pk無。
由緒,伝承:由緒伝わらず。平安熊野詣盛んな頃隆盛であったと伝わり、
秀吉根来攻めのとき兵火により灰塵に帰したと謂う。
付近は住宅が密集している、よく手入され気持のよい境内である。
*八王子(天照大神の御子で初王子とも):正哉吾勝々速日天之忍穂耳命、
天之菩卑命・ほひ、天津日子根命、活津日根命・いくつひね、
熊野久須毘・くまのくすひ、多紀理毘売命・たきり、市杵嶋毘売、多岐津毘売命・たきつ。
茅渟神社お正月風景
茅渟神社のお正月風景 写真を見て頂いたとおり人影はまばら、田舎の神社と言った感じで、お参りに来るのは、地元村住民で、出店も無くひっそりとした、感じですが、逆に静寂感があり、とても清々しいく、澄み切った空気が漂うような雰囲気です、お正月は可愛い巫女さんが2人お守り、などを販売しておられます、写真上のお守りを買って来ました、魚の刺繍に、チヌでしようか、鯛でしょうかわかりませんが、中に茅渟神社と刺繍されていて、つい買ってしまいました、一度参拝されては如何でしょうか。 |
最古のロマン・・私達が口にする、愛しい魚の名前が、語源何時の時代から、
(茅渟と言う名の語源) 茅渟と言う地名の由来 史上に残る確かな資料は、古代、5世紀頃、奈良時代允恭天皇の離宮(衣通姫茅渟の宮)があった、現在の大阪府泉佐野市上之郷あたりに、離宮があっと古記には、しるされている。又、その地域のうみは、和泉国と淡路国との間の海(和泉灘)を茅渟海(ちぬのうみ)と古称したようです。茅渟と言う地名はそれ以前にすでに、有ったようです。別名海の離宮とも言われていた。 海の離宮に対し山の離宮が同時期存在した、奈良時代の前半にはこの離宮を中心に和泉監という特別行政区おき和泉国と言う一つの国が形成されていた(和泉の宮) 現在の和泉市府中町付近く、ここに茅渟と言う地名の由来の語源の形跡が有るのではないか、古墳時代の資料に、泉州最大の信太千塚古墳群の一つ。4世紀の前方後円墳、円笠山古墳に茅渟県主(ちぬのあがたぬし)一族や壬申の乱で功を立てた古代氏族坂本氏の家族墓と想定とある。 又、完訳日本の古典に、和泉国泉郡血渟の山寺に、吉祥天女 捻像あり。とある吉祥天女は、インド神話から仏教会にはいってきた女神とある。 茅渟の茅は、そのまま読むと木のカヤ 渟は、今となってはヌとPCで漢字変換しても出てこない、主に使われているのは、「渟足棚、渟名井、渟名川、渟名田、渟名」いずれも水に関連し溜まる、流れないと言った意味らしい一文字読みでは、『ぬたり』としか読めないようです、いずれにしても、木のカヤと渟ぬたりは、どう関連性が有るのでしょう、古くは、アイヌ語と深く関連しているようだ、 広辞苑を見ると(茅渟)大阪府南部の和泉の国にある地域の古称。血沼・千沼・千渟・智努・・となっている。 おそらくこのあたりの名称から来ているのではないでょうか。 |
茅渟の宮跡允恭天皇が妹の為に建造した離宮 (泉南市資料)
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茅渟の道 宇田上皇が熊野参拝を行って以降、京都の貴族の間で熊野参拝が盛んになったそうです、茅渟と言う地名が存在した頃の街道の呼び名道、茅渟の道から熊野大道・熊野街道と呼ばれ、又平安時代入って紀州街道(又の名を小栗街道)と歴史が変わるごとに変名したようです。小栗判官があった道を今でも地元の人は、小栗街道と読んでいる、私も例にもれず親から子へ言い伝えられた。 茅渟と言う名称の名残 現在でも茅渟と言う地名が無くても近隣各地の学校校歌として残っているようです例えば地元脇浜小学校、又、神戸の商船大学、甲南大学他数多く、茅渟の海の爽やかな風と言うような歌詞がよく歌い告がれているようです。 |